介護

2019年11月19日 (火)

住み慣れた地域での暮らし~共助と共生~

ずっと大きな病気をすることなく、元気に暮らしてきていた義母が

5月に大腿骨を骨折しました。


近くに住む義弟たちが入院・手術の時だけでなく、

入院中の対応もいろいろしてくれていました。


術後の経過も順調で、リハビリも順調に進み、

入院期間も予定より短かくなり、7月末に無事退院しました。


義母は安全のため杖歩行で生活していますが、

私たちとしては電話での確認だけだと不安もあり、

入院中だけでなく、退院後も1ヶ月に1回、帰省しています。


毎回、義母の体動を見ていると順調な回復を感じますが、

ひとり暮らしのため、今まで以上に心配はあります。



退院後の通院はどうしているのか、

買い物や用事での外出はどうしているのか、

私たち思考で考えると不便や困難を想像してしまいます。


けれど、義母は全く、不便や困難を感じていないのです。


里山の広がる田舎で、 バスは1日に数えるほどしかありませんが、

退院後も経過を診ていただいている隣市の病院には、バスで通院しています。


朝のバスは、義母と同じように通院する高齢者の人たちがたくさん利用しているそうです。


義母の地域は高齢者には走行距離に関係なく、

1乗車100円という優遇対応もあるそうです。



食料品や日用品は1週間に1回、移動販売の車が家のすぐ前に来るので、

義母もそれを利用して買っているそうです。


移動販売で購入できないものは、バスを使って買い物に行くようです。


義母は元々、車の運転はできません。


自転車に乗れなくなったのは少し不便なようですが、

義母は若い頃からバスを使った生活をしているので、

「杖を使っているから、リュックで出かけて、リュックに詰めて帰ってくる」と

特に困った様子もなく、あっけらかんと言うのです。



元々、精神的にも強く、「スーパーポジティブ思考」の義母は、

今回のような状況になっても、以前と何も変わらないのです。



地域の民生委員さんの見守りや安否確認もあります。



義母の地域では、災害避難などで移動が必要な事態が起きた時のために、

「マイカーを出す人と乗り合わせる人たちの割り当て」が決めてあるそうです。



10月に帰省した時は地域の運動会がありました。


Photo_20191117000701 ご近所のお家の壁に貼ってあったチラシ



こうした地域の活動も大好きな義母なので、

以前から積極的に参加し、出場しているという話は聞いていました。


今年は出場するには不安もあったのか出場はしませんでしたが、

私たちが庭の木の剪定作業をしている間、義母は観に行っていました。


お昼に誘われて、私たちも観に行きました。


Photo_20191117000801 運動会の様子


Photo_20191117000802 運動会の様子


運動会の会場は山ねこの通った小学校の運動場でした。

今は、他の小学校との統合で閉校となり使われていませんが、

運動会だけでなく、地域のお祭りなどでも有効活用されているそうです。



おうどんやおにぎりなどを作って販売しているのも地域の人たちでした。



会場で出逢った人に「〇〇さんは来ていないけど、元気にしている?」と

声をかけ合っている人たちもいました。



日頃からこういう地域の繋がりがあることで、

自然に助け合ったり、支え合ったりできる日常があるんだと感じました。


隣接する中学校も閉校となっていますが、

運動場は「臨時ヘリポート(防災・救急)」になっています。

(この日は運動会のため、駐車場になっていましたが…)


Photo_20191117000901 「臨時ヘリポート(防災・救急)」の看板


Photo_20191117000902 「臨時ヘリポート」に指定されている運動場



今回、初めて地域包括センターにも行ってきました。

義母とも行き来のある職員さんにお礼を伝えることと、

地域の現状を確認することが目的でした。


義母は昔からからご近所のひとり暮らしの人たちのことも気にかけ、

労を惜しまず、できることはお手伝いしてきたような人なので、

職員さんからは逆にお礼を言われました。


職員さんのお話によると、義母の地域は他の地域に比べて、

ご近所さん同士の繋がりが深いこともわかり、

高齢になっても、独居になっても、

住み慣れた家を離れたくないという人たちも多いそうです。


介護保険のサービスではなく「配食サービス」というものもあり、

配食時の声かけ等で、異変に気づく見守りにもなっているとのことでした。


料理を作るのが難しい人たちだけでなく、

見守ってもらえる安心のために有効活用されている人たちもいるそうです。



義母は「配食サービス」は利用していませんが、

「ここでは誰にも気づいてもらえず孤独死するようなことはない」と言います。



地域包括センターの職員さんの話は

義母の話や私たちが垣間見た地域の様子と共通していることを実感しました。



「共に生きる」ということは、

こうして、日々、地域の中で自然に営まれている「共助」があってこそ…と、

義母と話していると再認識させてもらえます。



2年前に他界した両親とはまた違った環境で暮らしている義母です。


義母や亡き両親の生き方・暮らし方は、

私たち自身の生き方・暮らし方・介護を考える機会になっています。



余談ですが、実家の近くの道の駅で、2匹の猫と会いました。


Photo_20191117001001 実家の近くの「道の駅」


Photo_20191117001002  実家の近くの「道の駅」


「猫の家」が作ってありました。


Photo_20191117001101 実家の近くの「道の駅」


こんな地域の光景にも「共助と共生」を感じさせられました。



帰省の回数は増えていますが、

近未来の私たち自身の老後を見据えた学びの時間が増えることでもあるので、

元気に帰省できるように、体力維持に努めて毎日を送りたいと思います。

2018年10月23日 (火)

母を想う

母を見送って、約1年(10月2日)が経ちました。

父が呼んだのか、父を追ったのか…真相はわかりませんが、

父の死(7月2日)からたった3ヶ月後の他界でした。



父を見送った後の3か月間の母の様子はブログに書きました。

両親を見送って想う ~「自分らしく生きる」ということ~(2017年12月30日)

http://yamaneko-kousakusitu.cocolog-nifty.com/blog/2017/12/post-c2fa.html



H館の職員さんたちには「仲のいいご夫婦」とよく言われていました。



若い頃は気難しい父の対応に苦慮し、不満や愚痴を言っていた母ですし、

父も母も伝え方が不器用なために、お互いの想いがかみ合わないことも多く、

両親の仲介をすることも多かった私としては、

「仲のいいご夫婦」と言われることは嬉しかったものの、

「昔はいろいろありました…」という想いもありました(^-^;



それでも、H館での両親の日常生活を傍でみていると、

2人は想い合っているのだなぁと感じさせられることは多かったです。




母がパステル教室で描いた絵や生き活き学級でやったプリントを

「お父ちゃんに見せる」と言って居室に持ち帰った時、

父は起きていると、それらを見て、笑顔で褒めていました。



Photo_6   母の描いたパステル画 (2015年5月)



母が不調の時には、父が優しく声をかけてくれました。



20162   母に声をかける父 (2016年2月)



父が不調でベッドで休んでいる時には、

母はデイルームから時々居室に戻って、父に声をかけてくれることも多かったです。



Photo   父を見舞う母 (2016年6月)



デイ通所中、父はレクなどの活動に参加することはなかったですが、

母がやっているのを優しいまなざしで見守ってくれていました。



Photo_2  母の活動を見守る父 (2016年10月)




父が訪問介護を受けているのを見ている時には、母は決まって、

「いつもお父ちゃんのお世話をしてくれてありがとう。

私がやらなあかんことやのに、ありがとう。」と職員さんにお礼を言っていました。



こんなふうに、両親の微笑ましいエピソードは書ききれないくらいあります。





今は「終活」ということばも一般的になっていますが、

母はそんなことばを使うことなく、

老後の生活、延命治療、葬儀、お墓のことなど…、

H館に入居する前は、折につけ、自分の考えを私に伝え続けていました。


母はどんなことでも書き記す人でもあったので、そうしたことを書いたものを見せられ、

「生きているうちに伝えておかなければ意味がない」とよく言っていました。




私が山ねこと結婚して早々、

淳子には伝えてあるけど、山ねこにも伝えておかないといけない…と言って、

母は、山ねこにも自分の考えを伝えていました。



山ねこは少し困惑していたようですが、母らしいなぁと思いました。



父と共にH館に入居することを決めたのも、母でした。



父もまた、母の意思だけでなく、自分の意思で、

夫婦が安心して暮らせる「終の棲家」として、

信頼し、安心できる職員さんがいるH館を選びました。




Photo_3


   両親と私たちが一番信頼し、大好きだった職員さんと母 (2014年4月)





人生の長さは誰にもわかりませんが、

どう生きるかを自分自身に問い、

「幸せな未来に繋がる今」を生きるために何をすればいいか…。



母は自分の老後のことを私に伝え続ける中で、

自分自身の生き方、言い換えると「命の終い方」を考えていたのかも知れません。



両親が水戸に転居後、アパート生活していた頃(約10年前)、

母に教えてもらった歌があります。



手紙~親愛なる子供たちへ

http://www.utagoekissa.com/tegamishinainarukodomotachihe.html



YouTube動画

https://www.youtube.com/watch?v=55EjDYHlMHc




この歌を知った当時は、父も母もそれほど老化は進んでいませんでしたが、

老化が進むたび、この歌詞に重なることが増えました。



私が子どもだった時に、両親に助けられ、支えてもらったように

父にも母にも、その恩返しができるといいのかなと思えて、

私なりの関わりができたのは、この歌にも支えられていたからかも知れません。




両親がお世話になっていた訪問診療所では、

毎年「Annual meeting」というイベントが開かれています。




両親の生前は家族として参加していましたが、他界後は一般市民として参加しています。



今年は10月6日でした。

今回は「事前指示書(※)」についての講演もありました。



  ※事前指示書

    将来、意思表示をする能力を失った時に備えて、

    終末期医療に関する意思を他者へ伝えるために事前に書いておくもの。




終末期医療に関する意思表示というと、老化が進み、

終末期を身近に感じるようになった時の意思表示のイメージがありましたが、

講演の中で印象に残ったことは、

「亡くなるのは必ずしも高齢になってからというわけではないので、

年齢に関係なく、必要と感じた時に書いておく」ということでした。



また、自分自身のためだけでなく、

「残される家族や関係者のためのものでもある」という話も印象に残りました。





母は「終活」ということば同様、

「事前指示書」というものがあることを知っていたわけではないけれど、

H館に入居後、いろんなことが起きるたび、

母が若い頃から私に伝えていたことは、私の判断に繋がっていました。



状況によっては多少判断に迷うこともありましたが、

迷う時ほど、母が私に伝えてくれていたことが「最終判断の決め手」でした。



母が認知症になってからは、、母に確認できにくい内容もありましたが、

できるだけ理解しやすいように伝えて、確認してきました。



「私の考えはちゃんと伝えてある。あとは淳子に任せる。」と言うのが母の意思表示でした。



そんな母の考え方を知っている遠くに住んでいる弟にも

「お姉ちゃんの判断で良い、任せる」と言ってもらえていました。



認知症であっても、最期まで、母が私を娘として認識し続けてくれたのは、

「自分が伝えてきたことをわかってくれている」という私への信頼が

母の心の中にあったからかも知れません。



母の穏やかで、優しい微笑みを浮かべたような永眠の瞬間を思い出すと

最期の最期まで「自分らしく生き続けることを支えてもらえた幸せ」を

母は感じてくれていたのかなぁとあらためて思います。



私が最後までぶれずにいられたのは、母のおかけです。



母の若い頃からの意思表示が明確で、具体的だったことで、

私たち家族も、たくさんの関係者の方たちと共に、

「自分らしく生きることを支える介護」ができたのだと思っています。



両親がお互いを想い合い、最期まで仲良く過ごし、

お互いが引き合うかのように、穏やかに命を終えることができたのも、

たくさんの関係者の方たちと共に、より良い介護ができたからだと思います。



短い期間に両親が亡くなり、今も寂しい気持ちはありますが、

父同様、母とも亡くなる瞬間までずっと一緒に過ごせたことで、

私の心はどこか、少し落ち着いているところがあります。



部屋に飾った笑顔あふれる両親の写真をみるたび、

今も、両親に見守られながら生きていることに幸せを感じます。



両親の介護は終わったけれど、私の介護への想いは続いています。



むしろ、介護を含めた私たちの老後の生活への意識が深まっています。



両親の願いは、私たちが前向きに生きることだと思い、

私も自分の病気や障害ともうまくつき合いながら、

心身状態の維持を意識して毎日を過ごしています。




両親のように、少しでも、穏やかで幸せな最期を過ごし、命を終えられることを願って…。



そのためにも、これからも、

日々の何気ないことにも心から感謝し、

ささやかなことにも幸せを感じながら暮らしていきたいなぁと思っています。



Photo_4   


   散歩の途中で「シャボン玉」を楽しむ母 (2013年7月)




Photo_6   母と外気浴 (2016年11月)


Photo_2   デイのノートから(2017年2月)


Photo_3   デイのノートから(2017年2月)


Photo_4   デイのノートから(2017年2月)


Photo_5   大好きだった「パステル教室」 (2017年6月)


Photo   お気に入りの散歩コース (2017年6月)



928


   ベッド臥床が続いたので、屋外に出て、軽運動でリフレッシュ

    (2017年9月28日 永眠の4日前)




介護中に撮りためた写真はいっぱいあります。

両親と積み重ねてきた歴史の記録でもあるので、

私たちのこれからの生き方の道しるべとして、少し整理し、まとめてみようと思っています。

2018年7月 3日 (火)

父を想う

父を見送って、昨日(7月2日)1年が経ちました。

あっという間の1年でした。



一昨年、脳梗塞を再発してから、

最期の時期はそれまで以上に、父と過ごす時間を大切にしてきました。



あらためて振り返ってみると、その頃は特に、

父の生き方にじっくりと付き添ってきたような気がします。



身体機能等の変化への対応に、私自身迷うこともありましたが、

その都度、父が何を望んでいるかを優先してきました。



たとえ、それが一般的な対応ではないにしろ、

父自身から確認できにくいような時でも、

元気だった頃の父の想いや考え方などを思い返し、

「父の人生の主人公は父本人」だという想いで対応してきました。



たくさんの関係者の方たちの中でも、

存命にも直結する訪問診療の主治医の先生とも、

月2回の限られた診療時間内にそんな話をし続けられたことは

本当に嬉しいことでした。





「ナラティブ」という考え方があることも、

その訪問診療所の前院長で元主治医の先生から教えていただきました。


http://www.medsafe.net/specialist/31saitou.html





医療法人社団ナラティブホームものがたり診療所の佐藤伸彦先生のご講演もお聴きしたことがあり、

佐藤先生の語られる一言一言が心に響いていったのを鮮明に覚えています。



当時のものではないですが、以下のページは最近見つけたものです。


http://tunagaru.org/medpresen/satonobuhiko




父を見送った後、訪問診療所全体のイベントにも参加し、

主治医の先生のご講演を伺う機会もありました。



また、先日、私たちが開催した「福祉のえん日(※)」には

主治医の先生もご来場くださいました。



※まだ報告ができていません(^-^;





両親の最期の頃に出逢った以下のページは何度も何度も読みました。

個人的にも、当時、この記事は大きな支えになっていました。


たんぽぽ先生の最新看取り事情

http://tampopo-clinic.com/zaitaku/mitori.html





最期が迫ってきているのがわかっていても、時々不安になることはありましたが、

そうして出逢ってきたたくさんの方たちのメッセージに私自身が支えられたおかげで、

実際の別れの時まで父と穏やかに過ごしてこれたと思っています。



その後も、また違った辛さが何度も押し寄せてきていました。

しかも、父を見送った3か月後に母を見送ることになり、

喪失感は私自身の想像以上でした。



それでも、私の場合、そんな苦しい想いを心の中に留めておくことができす、

亡くなった当初からいろんな方たちとお話してきました。




父たちを知っている方たちはもちろん、

父たちを知らない方が父たちの話をしっかり聴いてくださったり、

私に語る場や書く場を与えてくださったりしたことで、

私自身、どれだけ救われたかわかりません。




父と母が自然体で生きてきたように、私もその血を引き継いでいるのでしょう。

私もいつも自然体で自分の気持ちを表し、人を頼り、支えてもらってきました。



生前とはまた違った形で、父も母も生きています。

辛く、苦しい時があっても、それが、私の大きな支えになっています。



6月30日、父の1年祭を無事終えました。



命日の7月2日は、父の行きつけだった散髪屋さんに出向き、

私自身が顔剃りをしてもらって、父のことも語り合ってきました。



生前、1か月にほぼ1回、私は父の送迎をして、

散髪をしていただくのを見ているだけでしたが、

父はこんなふうに身をゆだね、気持ち良い時間を過ごしていたんだということを

初めて知りました。



その散髪屋さんは、私が知らない父のエピソードを語ってくださいます。



かなり頑固で、気難しい父でしたが、

そんな父のことをよく理解してくださっていたのだなぁととても嬉しくなります。



父も理解され、受け入れられていることがわかるから、

自分自身が安心し、快適に過ごせる居場所として、

亡くなる直前まで、その散髪屋さんに行くことを望んだのだと思います。




Img_4763




H館に入居するまで、市内のアパートで暮らしていましたが、

当時の父はその散髪屋さんのように地域の方たちに支えられて暮らしていました。



家族でなくても、父と繋がり、ずっと想ってくださっている方たちがいます。



父が生まれた新潟、そして、大阪から神奈川、茨城…と

高齢になってからの転居であっても、こんな幸せな暮らしを続けることができるのですね。



父の生き方(終い方)を想い、

これからは、私自身がどう生きるかを問い続けて、

私も自分らしく生きていけるといいなぁと思っています。




「お父ちゃん、ありがとう」と父の笑顔の写真に語りかけ、

命日の夜は父が大好きだったお酒を一緒に飲みました。




Photo

2018年3月18日 (日)

両親から私への「エール」

3月16日(金)朝日新聞の朝刊に掲載されていた「折々のことば」に

両親を介護していた頃のことを思い出しました。



316   3月16日(金)朝日新聞の朝刊「折々のことば」



このことばは、記事にも書かれているように、

樋口了一さんが歌っていた歌の歌詞からの引用です。

2008年に発表された楽曲だそうです。



手紙~親愛なる子供たちへ~

“老い”をテーマにした感動の名曲はこうして生まれた


http://www.tapthepop.net/day/67493#bmb=1



この歌は、母から教えてもらった歌です。

歌詞の中の一言一言が心に響き、涙が止まりませんでした。



当時、両親は水戸に転居していましたが、2人でアパートに住んでいて、

母は老人会や公民館での活動にも通っていました。



その後、サービス付き高齢者向け住宅に転居し、要介護生活に入りました。

介護の中で、この歌詞に重なるエピソードもたくさんありました。



昨年、父と母が続けて他界し、今も喪失感があふれ出てくることがあります。



介護しているようで、実際は、両親に支えられていた私でした。

2人が亡くなる時までずっとずっと…。



母が元気だった頃、私にこの歌を教えてくれたのは、

この歌を通して、私に伝えたい想いがたくさんあったのでしょう。



ここしばらく、この歌のことは忘れていました。



この「折々のことば」で、この歌に再会できたのは、

両親が私に送ってくれた「エール」なのかも知れません。



今日はお墓参りに行ってきました。

草木の芽吹きも見られて、心地よい森林浴ができました。


Photo   両親が眠る樹木葬霊園の中


 

Photo_2   園内散策


Photo_3   木彫りのねずみ


Photo_4   常陸国出雲大社の大しめ縄



少しだけど、また一歩、前に進めそうです。

 

 

2018年2月 2日 (金)

「ドロップス」との「ご縁のえん」~両親の導き~

1年近く前のことです。

昨年の2月18日に「kintaのブログ」を読みました。

★ドロップス活用例大募集★

http://magicaltoybox.org/kinta/2017/02/18/14570



「ドロップス」がいろいろな場で活用されていることは知っていましたが、

「視覚シンボルで楽々コミュニケーション」という本が生まれた経緯は知りませんでした。



「kintaのブログ」を読んで、人と人との繋がりっていいなぁと思いました。

そして、活用例が募集されているなら、私も応募しようと思いました。



両親との関わり合いの中で「ドロップス」のシンボルを「絵カード」にして

日常的にいろいろ活用させていただいてきたからです。



コミュニケーションは双方向(2016年6月27日)

http://yamaneko-kousakusitu.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-ae39.html



「ドロップス」を両親とのコミュニケーションに使っているという現状と

介護の中で役立てられていることが嬉しくて、お礼の気持ちで応募しました。



「ドロップス」に限らず、両親を通して知ることになった介護現場では、

「視覚的な支援」が浸透していないことを知り、残念だなと思っていました。

(両親が入居していた住宅がたまたまそうだっただけかも知れませんが…)



一方、ほぼ毎日、両親が暮らす住宅に通い続けたことで、

介護現場の人手不足やシビアな実情もリアルに見えていました。



そんな介護現場の実情から、

「視覚的な支援」などが「役立つもの」であっても、

「絵カード」なども使い慣れていらっしゃらない職員さんたちに

一方的にお願いすると負担になるだろうことも感じていたので、

両親が必要な時に私が使い続けていました。



両親と私の日常の「視覚的な支援」や「絵カード」の活用を見て、

職員さんたちがその有効性を感じて取っていってくださったことはとても嬉しいことでした。



職員さんたちが真似て使ってくださったり、工夫してくださったりして、

少しずつ広がっていったことも嬉しかったです。


また「視覚的な支援」が両親と私のコミュニケーションだけでなく、

職員さんたちにも役立っていたことは新鮮でした。



両親が暮らした住宅は職員さんが短時間勤務体制にもなっているので、

一日の中でも職員さんたちの入れ替わりが多いこともあり、

職員さんたちが伝え合う引継ぎ事項も多く、情報が錯綜するようでした。



そんな実情でもあったせいか、

私がお願いしたり、職員さんから伝達されたりすることを

「写真」や「掲示物」として作り、両親の居室に貼り出していたので、

「三郎さんとみよさんに関することは、居室に行けばわかる」とよく言われていました。



「簡潔明瞭」「一目瞭然」な「視覚的な支援」はやっぱり誰にとっても有効なんだ…

そう実感すると、工作好きの私のモチベーションはますます上がっていきました(*^^*)



私にとって、「掲示物」などを誰が作るかは問題ではなく、

「必要とする時に、すぐ作る」

「修正が必要な時には、すぐ修正する」

「不要な時には、すぐ撤収する」…というように、

両親の実情に合わせた対応が重要でした。



わかるように書いて掲示したつもりでも、伝わっていないと感じる時は、

「わかりにくいんだ」「まだまだ私の力不足なんだ」ととらえ、修正し、作り直してきました。



自分本位で作ったり、使ったりしていると気づかないこともあるので、

両親の言動や認識のしかたを細かく観ることをより重視してきました。



両親の動線、視線はもちろん、職員さんたちの動線、視線も観て、

誰にとっても「見えやすい」「使いやすい」ような工夫もしました。



特に怪我や事故に繋がり兼ねない注意喚起の掲示は迅速さも必要でした。

また、掲示場所(高さや位置)や掲示物の大きさも重要な視点でした。



両親がベッドでの臥床中に見るものは、私自身が実際にベッドに寝てみて、

高さや位置を確認し、必要に応じて微調整もしました。



実際に使っていく中で、私の思考もどんどん柔軟になり、発想も豊かになり、

新たな工夫や配慮ができるようになることを実感していきました。



そうするとアイディアもどんどん浮かんでくるので、作業する時間もあまりかかりません。

私にとっては支援のためというより、「自分自身の楽しみ」として定着していきました。

「気づきや学び」を楽しみと感じられることが嬉しかったので、

こういう作業もまったく苦にはなりませんでした。



「ドロップスをご両親とのコミュニケーションに使う時、抵抗なかった?」と聞いた

友人がいました。

「ドロップス」は特別支援学校の先生たちが作られたものですし、

学校関連の絵が圧倒的に多いので、そんな問いかけも不思議ではありません。

いろいろな動作や活動に描かれている顔は「男の子」や「女の子」なので、

私も使い始める頃、両親と使うには少し子どもっぽいかなとは思いました。



でも、「ドロップス」の存在を知らなかった友人のOTが「男の子」の絵を見て

「おじいさん」と言い、「お父さんに似たイラストをよく見つけたね」と言ってくれたのが新鮮で、

先入観で見てしまうのはいけないなと気づかされました。



職員さんたちや他の事業所から訪問してくださる担当者の方たちにも

「絵がとてもシンプルで、わかりやすくて良いね」と言われました。

他の訪問先の方たちとのコミュニケーションに悩まれていることもあり、

「こうした『良いもの』の存在を知り、使っていくことで、

高齢者の方たちの現場でも広がっていくと良いね」とも言われました。



両親とのコミュニケーションに役立てばと思って使い始めたものが、

職員さんたちや関係者の方たちとのコミュニケーションにも役立つことがわかり、

「ドロップス」が「絵カード」の素材というだけでなく、

生活の中で息づいていったことは本当に嬉しいことでした。



昨年の7月2日に父が亡くなり、10月2日に母が亡くなりました。

12月のブログの中にも書いていますが、

母とは亡くなる日まで「絵カード」を使っていました。



両親を見送って想う ~「自分らしく生きる」ということ~(2017年12月30日)
http://yamaneko-kousakusitu.cocolog-nifty.com/blog/2017/12/post-c2fa.html




母が亡くなった直後に「ありがとう」と書いた「気持ち」の絵カードを母の枕元に置きました。

最後のお別れにきてくださる方たちに向けて、

母が伝えたい気持ちを「ありがとうの絵カード」に託しました。

Photo_5   ありがとうの絵カード



納棺の時には、私たちみんなの気持ちをこめて、「ありがとうの絵カード」を入れました。



母を見送る時にも「絵カード」をこんなふうに使えたのも、

「絵カード」が私たちにとって「生活の一部」になっていたからです。



あらためて振り返ってみると、

両親と私にとって「絵カード」や「視覚的な支援」は

支援ツールというより「あたりまえの日常」になっていたのです。



両親が続けて他界し、いろいろな雑務に追われ、

応募していたことすらすっかり忘れていた時に、

出版社(七七舎)から両親との活用例が掲載されるという連絡が入りました。



とても驚きましたが、連絡があったのが偶然にも11月2日、

両親のいわゆる「月命日」だったこともあり、両親の供養になると思いました。



「視覚シンボルで楽々コミュニケーション おかわり2」に掲載していただきました。

Photo_3   

   「視覚シンボルで楽々コミュニケーション おかわり2」


https://www.space96.com/php/user/item_detail.php?store_id=space96&flow_id=joyVrI&from_page_id=keyword_list74991100&youto_kbn=1&andor=and&item_cd=s17111403



両親がお世話になった住宅の職員さんに報告すると、

「三郎さんとみよさんと過ごした日々を思い出しました」と言われました。



「ドロップス」とのご縁が両親と私だけではなく、

職員さんたちや他の方たちとも繋がっていたことをとても嬉しく思いました。



実は、「ドロップス」とのご縁にはまだ続きがあります。

七七舎の方から、また連絡が入りました。



七七舎は介護関連の雑誌(ブリコラージュ)も出版されています。

http://www.nanasha.net/brico/index.html



「ドロップス」を高齢者とのコミュニケーションに使うのは良いアイデアで、

介護現場でもこうしたコミュニケーションツールが広がるといいなという

担当者の方の強い想いがこめられた原稿依頼でした。



私自身、以前から同じことを考えていたこともあり、

原稿を書くことで両親だけでなく、

他の方たちに役立つことに繋がるなら嬉しいと思いました。



また、こうした機会を得て、書かせていただけるのなら、

お世話になった関係者の方たちへの感謝の気持ちを伝えられると思い、

お引き受けしました。


Photo_4   介護雑誌「ブリコラージュ」



教育・福祉・医療・介護など分野を分けず、

子ども・大人・高齢者など世代も問わず、障害の有無も問わず、

「必要な時」に「必要な支援」を受け合って、

「安心できる暮らしが叶う社会」にしていきたいという想いがあります。



そのためにも「良いもの」が浸透していくことはとても重要です。



私たちが日々の生活の中でやれることはささやかですが、

今回の「ご縁のえん」もそんな小さな一歩だと私は思っています。



今、毎日、両親の笑顔の写真をみるたび、

こうして書いて発信することも含めて、両親に導かれている気がします。



介護をしていた時より、違った意味で、両親を身近に感じる毎日です。



「ドロップス」の「ご縁のえん」は私にとって、

「両親の娘として生まれ、今を生きている幸せ」にも繋がる大切なものとなりました。



関係者のみなさまには感謝の気持ちでいっぱいです。



自分自身の老いや死を見すえて、最期までどう生きるかを考えてきた両親です。



父が父の生き方を全うし、母が母の生き方を全うして生きぬいたように、

いっぱい迷ったり、悩んだり、失敗したりしながらであっても、

私も私の生き方を全うできるように生きていけたらいいなぁと思います。



そのためにも、まだまだ修行は続きます。

もちろん、苦行ではなく、何事も楽しみながらです!(*^^*)!

2017年12月30日 (土)

両親を見送って想う ~「自分らしく生きる」ということ~

最後の更新から4か月も経ってしまいました。
自分なりに無理せず、ゆっくりペースで…とは言え、
ますます新鮮さに欠けるブログになっていますが、年末になり、やっと再開です(^-^;



7月2日の父の死からたった3か月後の10月2日、母が亡くなり、
まだまだいろんな想いの中で日々を送っています。



両親を見送った後の「介護日記」というのも変な感じかも知れませんが、
介護の中で工夫したり、配慮したりしてきたことも多いので、
自分自身の振り返りと今後のためにも少しずつ書いていこうと思っています。



父が亡くなって以降の母の介護は、
母が父の死の認識と受け入れで辛労していたこともあり、
今まで以上に配慮を要しました。


でも、介護が大変だったというよりも、
母と過ごす日々は私にとってとても貴重で、
母との関わり合いに集中できる良い時間になりました。



母は認知症になって、認識する力が弱くなってからも、
「自分なりに理解し、納得したい」という想いは昔と変わらず、
母自身も事あるごとに「ちゃんと教えてほしい」と言っていました。



「認知症があってわからないのだから、
いろいろ伝えると余計に混乱したり、不安になったりするから伝えない方が良いのでは?」
そんな考え方もあるかも知れませんが、
私は母の特性や意思に添って、ぶれることなく
母が「理解しやすく、納得できるように伝える」という対応を続けてきました。



私は自分自身のそんな対応を「実況生中継」と呼んでいました(*^^*)



父は最期の頃、日中寝ている時間が増え、
だんだん食べることができにくくなって痩せてきました。
また、発話もほとんどできなくなっていました。



父のそんな変容は老衰が進んでいるからだということを
母が理解しやすいように、具体的なエピソードを添えて伝え続けました。


そういう意味では、母も父の変容を母なりに納得しながら、
父への直接的な介助はできないものの、妻として見守り、支えていました。


父もまた、そんな母に支えられて穏やかに過ごしていました。



母は父の臨終の日、私たち夫婦と共に父を見守り、声をかけ続けました。



父は発話もできなくなっていたので、母に声を返すことはできませんでしたが、
力強い視線で、母と私たちに「ありがとう」を伝えたことで安心できたのか、
眠るように逝きました。



母は訪問診療のドクターから父の死を告げられた時は、
「え~、おとうちゃん、死んだん?!」と大泣きしました。



その後、ベッド上で父のケアをしていただくのを見守り、
母と私も父の身体をきれいに拭いたりしましたが、
その時も母は父の死を認識できたり、できなかったりしていました。



父が全く苦しむことなく、眠るように逝ったこともあり、 寝ているようにしか見えず、
いつもの訪問介護の時間のようにしか見えなかったのでしょう。



母が「お父ちゃん、どうしたん?!」と聞くたび、亡くなったことを伝えました。


父が亡くなったことがリアルにわかるように、
安置されている父の手を母に触らせたりもしました。
母は冷たくなった父の手に触れて、
「お父ちゃん、死んだんやね」と言いました。



母の反応はその都度いろいろ違っていて、
初めて知ったかのように驚き、大泣きすることもありました。



そうした母とのやり取りの繰り返しは、
父の葬儀や火葬や埋葬の流れの中でも続きました。


家族の死、特に、配偶者の死は辛いことですが、
母は認識できたり、できなかったりする現実の中で、
本当に苦しかっただろうと思います。



2つのベッドがあった居室から父のベッドがなくなり、
7月当初は居室の住空間の変化に母は混乱し、
「自分の部屋じゃない」と情緒不安定になりました。


もちろん、それは私も予測していたことです。


それもあって、H館では、環境の変化を最小限にしようと
1人部屋への変更はしない配慮をしてくださいました。


それでも、起きた混乱でした。


居室の入り口には「みよの部屋」と貼り紙をし、
居室を出入りするたびに、母に貼り紙を読ませるようにしました。



「この部屋にいた男の人がいなくなった」
「写真に写っている人が亡くなった」
「ベッドが一つなくなったから、部屋が広くなった」
「ここは私の部屋やね」などなど
母自身も現状を理解し、納得できるように「ことば化」していました。



担当ケアマネさんは「実況生中継」と称した私の対応を
いろんなシーンで見聞きしてきてくださっているので、
「三郎さんの死や環境の変化でみよさんが混乱するのは予想していたけれど、
予想より落ち着いて過ごせているのは、
その都度、みよさんにわかりやすく伝えてきたからですね」と言ってくださいました。



認知症があるということで、不要な混乱や不安を防ぐために
事実を知らせないという配慮をされる方たちもいるようですが、
対応の良し悪しではなく、 
私は本人の元々の特性を知り、本人に合った対応をすることが大事だと思います。


デイ通所中に「お父ちゃんの様子をみてくる」と言って居室に戻ることは
父の生前にもよくありましたが、デイの職員さんたちの報告によると、
父の死後、デイと居室の行き来の回数は増えたようです。



父は亡くなっているので居室にはいません。


母にとって日課でもあったデイと居室の行き来の中で
父が居室にいないことを知ることで、混乱を生み、辛労も増えたと思います。



ある日の日中臥床時「誰かが来た、知らない人が呼んでいる」と寝言を言い、
「私はトイレに行くので、そこには行けません」と言いました。



母のことばに苦笑しつつ、母の辛労を痛感しました。



その後、離床して、父の写真を見たとたん、
「この人が頭に浮かんできた(^^)」と言いました。



母にとっては夫である父のことを母が「知らない人」と表現するのは私も辛かったですが、
その後も続いた母とのやり取りの中で、
7月、8月は、母が現状を理解し、受け止めていくために必要で、
大事な時間なのだということに私も気づいていきました。



8月中旬頃から、夫が亡くなったことが母の認識の中で繋がってきたようで、
母は「寂しい」「お父ちゃんのところに行きたい」
「お父ちゃんが迎えに来ている」と言うことが増えました。



母は私のことはわかっていたので、「お父ちゃんのところに行きたい」と言うと、
私が悲しい想いをすることはわかっていたと思いますが、
それ以上に、自分の想いを私に伝えたかったのでしょう。




私たちとは少し違う思考の中で、混乱し、情緒不安定になりながらも父の死を認識し、
受け止め、受け入れた上で、妻として夫を想う気持ち…。



私は母の言動から母の父への想いを感じ取っていきました。




9月初めに母は不調になりました。


往診で採血をしていただき、数値に異常が出ていることがわかったため、
抗生物質と栄養の点滴を受けることになりました。


それまで通所していたデイサービスを休み、
居室で過ごす生活に変え、毎日、私が付き添いました。



1週間以上もベッド生活をしたのは初めてなので、
意思疎通はできるものの、認識力は衰え、
今まで以上に、意思確認や指示には「視覚的な伝達」が必要になりました。



老人性難聴のあった父はもちろん、
以前から、母にも日常的に「絵カード」を使った予定の伝達や意思確認など
「視覚的な伝達」の配慮や工夫は続けていました。



母が元気な時から、日常の自然な対応として
「視覚的な伝達」の配慮や工夫を取り入れて続けてきたことで
病床時期は、よりスムーズで、的確なコミュニケーションに有効なことを実感しました。



日頃から、そうした地道な積み重ねが大事なのだと思います。



11日間の点滴で体調も回復していきましたが、
母は「自分は病気」という認識が消えにくい状況でした。



そこで使ったのがホワイトボードに書いたメッセージでした。



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             体調が戻ったことを知らせるホワイトボードに書いたメッセージ



母にメッセージを見せ、読んでもらいました。


目で見て、声に出して読むことで、母は回復したことを認識できたようでした。


ニコニコマークを書き添えていたので、
母はそれにも気づき「笑っているね」とより安心していました。



母に大きな声と笑顔が戻って、私も安心しましたが、
ずっと休むことなく頑張ってきた母には静養が必要だったのでしょう、
日中眠ることが増えました。


今まで日中に長く眠ることは殆どなかった母なので、
昼夜逆転にならないか心配しましたが、
夜勤の職員さんたちの報告によると夜間帯も良く寝ているとのことでした。


「もっと寝たい」と言って眠っている母の傍にいると、
不調から回復しても、父を亡くした喪失感や環境の変化を受け入れていく辛労は
予想以上に大きかったことがわかりました。


心身の疲労は「脳の疲労」にもつながっているので、
ぐっすり眠っている様子をみていると、脳を休めているように見えました。



変な言い方ですが、母にとっては、
昼も夜も安心して眠れる一番良い時間を過ごしているように感じました。



9月30日の朝、私と過ごしている時に意識を消失しました。



突然のことでしたが、声をかけているうちに意識は戻り、
職員さんたちのテキパキとした対応の中、
往診のドクターが来てくださった時には何事もなかったかのように回復していました。



ドクターには経過も含め、母の現状を伝えました。
ずっと付き添っていたことで、細かい様子や変化を伝えることができて、
本当に良かったと思います。



その日は休日で代診のドクターでしたが、私の話を丁寧に聴き取ってくださり、
母の現状やそれに伴う対応やご助言をいただき、安心しました。



中でも、母が「父のところに行きたい」と言っていることについて、
ドクターが「それは大事なこと」と共感してくださり、
「三郎さんの死による精神状態の経緯からも、本人の希望の訴えを聴き、
それに合わせた無理のない対応をしていくことは重要」と言ってくださったことは
本当に嬉しかったです。



その後、主治医のドクターと連絡を取って相談してくださり、
提示してくださった方向性も私には納得できる内容でした。



訪問診療所の主治医や他のドクターやスタッフの方たちは、
元気だった頃の母の延命治療は受けないという意思を尊重し、
私もそれが家族としての意向でもあることを伝えてきたので、
関係者みんなが納得できる方向性を出してくださったのだと思っています。



母はその時こんな展開を認識する力は殆どなくなっていたと思いますが、
母の穏やかな表情を見ていると、わかっているのかも知れないとも思いました。



10月2日は朝から血圧計測不能な状況やその他諸々、
いつもと違う様子が見られましたが、苦しむ様子はなく、
私の語りかけや歌を嬉しそうに聴いていました。



母の故郷の話や私の子どもの頃の話もしました。
「ふるさと」を歌ったら涙をこぼしました。


その日は発話もできない状況でしたが、母の「目力」は強く、
私は母の心の声をどれだけ聴き取るかが試されているようで、
悔いのないように全身全霊で付き添いたいという想いでした。



その日も「絵カード」を使いました。


飲み物もコップで飲むこともできなくて、スポイトを使っていましたが、
飲むかどうかの意思確認に「絵カード」を使うと母は指さしで応えました。


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         飲み物を飲むかどうかの確認に使った絵カード



たった1滴の水分でしたが、おいしそうに飲みました。



私自身、こんな状況の中で「絵カード」を使うとは思っていませんでした。



私がそうした対応を続けることができたのは、
母の「意思を伝えたいという想い」が強かったからだと思います。




母だけでなく、父の最期の頃も、私自身の感性を高める努力をし続け、
本人たちの意思確認を優先して、あの手この手でコミュニケーションをとってきて、
本当に良かったとあらためて思います。



母は職員さんたちに直接お礼を伝えたいという想いも強く、
居室に来てくださる方たちの手を握り、懸命に伝えていました。



その日の母の様子を伝えるために夫にかけた電話にも母は出て、
声にならない声で伝えていました。
「おかあちゃんのありがとうの気持ちはちゃんと伝わったよ」と言うと、
安心したように微笑みました。



母は夕方の訪問介護の時にも対応してくださった職員さんたちの手を握り、
「ありがとう」を伝えていました。


母の想いをしっかりと受け止めてくださった職員さんたちの笑顔にも安心したのか、
職員さんたちの退出後、母は私の傍で苦しむことなく、穏やかに、眠るように逝きました。



長い人生の辛苦もすべて浄化し、笑みを浮かべているような顔でした。



その後、往診してくださった主治医のドクターには大往生だと言っていただけました。
私もそう思います。



父同様、母も老衰でした。




戦中派の両親は、私には想像もできない体験をしてきていると思います。
2人共、若い頃も、結婚してからも、私たち姉弟を生み、育てる中でも、
苦労してきたこともたくさんあっただろうと思います。



それでも、どんな時も、自分らしさを失わず、
「ありのままの自然体」で生きてきた2人でした。



「ありのままの自然体」で生きることは生きにくさに繋がることもあり、
辛いこともあったと思います。



それでも、2人共、自然体で生き続け、人生を生ききりました。



最期まで、職員さんたちや関係者の方たちにありがとうを伝え続けた両親の姿は、
日々の介護への感謝の気持ちだけでなく、
「自分らしく生き続けることを支えてもらえた幸せ」への
喜びと感謝の意思表示に見えました。



私は両親が命を終える瞬間まで自分らしく生ききれたのは、
たくさんの関係者の方たちと共に、
「自分らしく生きることを支える介護」ができたからだと思っています。



亡くなる直前まで訪問リハビリに来てくださった両親の担当PTさんの
「お二人は生きることを諦めていない」
「諦めていないから、訪問し続けさせてもらえる」ということばが
今も心に深くしみこんでいます。



父と母の生き方(命の終わり方)を見てきて、
本人自身が家族はもちろん、まわりの方たちに意思を伝えること、
そして、家族とまわりの方たちが本人の意思を尊重し、
共通した想いで本人に関われるかどうかが重要なのだと思いました。



私1人では、両親の意思を全うさせてあげることはできなかったと思います。


あらためて、理解してくださる方たちや支えてくださる方たち、
それぞれの立場でできることを支援してくださる方たちがいたことが
大きかったのだと思っています。



本人を取り巻く方たちが、そういう対応を続けることで、
本人もまた、発話ができなくなったり、認識できにくくなったりしても、
意思を伝え続けてくれるのだと思います。



言い方を変えると、本人の自己選択・自己決定・自己実現は
まわりの方たちの情報共有と共通理解、そして、
本人に合った的確な対応がなければ叶わないのだということを
両親の生き方を通して思い知らされました。



私は両親の生き方から学び続けることができたこと、
研修などでの学びを日常生活の中で活かすことができたことに心から感謝し、
嬉しく思っています。



短期間に両親を亡くした喪失感は大きいけれど、
父と母の意思が私を支えてくれたこと、
最期の最期まで私を導いてくれたことを幸せに思います。



あとわずかで今年も終わります。



新年も、今まで通り、人と人との出逢いとつながりに感謝し、
両親のように「自分らしく生きる」ことを大切にして生きていこうと思います。



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    散髪してきた母に「きれいになったな」と声をかける父(2016年)


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     脳梗塞再発後のリハビリ中(立位練習)の父(2016年)


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    脳梗塞再発後のリハビリ中(ペダルこぎ運動)の父(2016年)


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    運動好きだった母のリハビリ時間(2017年)


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     パステル教室で描いた絵と笑顔の母(2017年)


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   母の日 私の手づくりカードと大笑いの母(2017年)


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    父の日 大好きなお赤飯とお寿司を見て、すぐに手を出し食べた父(2017年)

     (殆ど食べられなくなっていた時期だったので、ビックリ!)




想いがあふれ、かなり長文になってしまいました。
最後まで読んでくださったみなさん、ありがとうございました。

2017年2月 7日 (火)

本人の性格や特性を知っておくことの重要性(父の話)

父に老人性難聴があることは、このブログでも何度か書いています。



老人性難聴と診断を受けたのは76歳。

今から30年前、母が日常生活の中で父の聞こえにくさを感じ、

父も合意して「聞こえの相談」をしたことがきっかけだったようです。

(私は近くに住んでいなかったので、母からの当時の報告です)



父は、その後ずっと補聴器を使ってきました。

水戸に転居後は、アパートの近くに補聴器のメンテナンスをしてくださるお店があり、

父は定期的に聴覚検査も含め、補聴器のメンテナンスに行っていました。



特に聴覚的には進行はしていないようでしたが、

適正なメンテナンスを受けていても、

父にとって、補聴器の使用が聴き取りやすさに繋がる感じがしないのか、

80歳を過ぎた頃からだんだん使わないようになりました。



そんな頃から、私も父と会話をしていると「補聴器の使用の有無」よりも、

父のコミュニケーションには別の観点があることがわかってきました。



元々、父は同時に複数のことをするのは苦手でした。



それに「聴こえ難さ」も重なって、

何かをしている時に話しかけると通じにくいということも多かったです。



父自身も

「何かをしている時に話しかけられると訳がわからなくなるから話かけないでほしい」と

よく言っていました。



歩行が不安定になってからは、歩いている時は特に話しかけられるのを嫌がりました。



こけないように神経を集中させ、慎重に歩いている時に声をかけられると

歩行バランスを崩されるから「怖い」と言っていました。



また「複数で会話をしている輪の中にいると声が聴き取りにくい」

「自分に話しかけられているのかどうかわからない」とも言っていました。



聴こえないために返答できなかったり、

会話に入れないためにまわりの人たちに無愛想に感じられたり、

時には、相手に無礼なように受け止められたりすることが辛く、

「相手やまわりの人たちへの申し訳なさがストレスにもなる」と言っていました。



そのため、家族での歓談はまだ良いとしても、

他の人たちが混ざった「歓談の場は好まない」とも言っていました。



父からそんな話をよく聞いていたので、

私は父と話をする時には、父がストレスを感じないようや工夫や配慮をしてきました。



2016年6月27日 付のブログに書いたことは、

長年の工夫や配慮の積み重ねを通して、

父との円滑なコミュニケーションの有効な手立てとして

父と私の「日常生活での当たり前の関わり」になっていった経緯でもあります。



コミュニケーションは双方向

http://yamaneko-kousakusitu.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-ae39.html



父は昨年の脳梗塞再発から車いすユーザーに変わり、日課も変わりました。



集団生活は好まないので通所介護は受けず、

訪問介護や訪問リハやマッサージだけを受け、日中は居室で過ごしていた生活から、

住宅内のデイサービスに通所し、週2回の入浴と共に、

毎日、昼食と夕食はデイサービスで摂り、

曜日によって時間帯は多少違うものの、デイサービスの部屋で過ごす生活に変わりました。



そんな生活に変わってから約1年。



今の父はデイサービスへの通所日課も父なりに受け入れ、

父の自然な日課として定着してきているように感じています。



デイサービスでは曜日や時間帯によって活動日課も組まれていますが、

基本的に自由参加なので、みんなと一緒に何かをやるということが苦手な父は

食事時間を除いては、自分の座席で過ごしています。



きっとそんな緩やかな過ごし方ができることが父の安心感にも繋がり、

デイサービスの部屋で過ごすことも定着してきているのだと思います。



1月、要介護認定の更新のため認定調査を受け、「要介護5」の認定結果が出ました。

それに伴う「サービス担当者会議」の前に、父から今の気持ちや希望の聴き取りをしました。



父と大事な話をする時には、いつも以上の工夫や配慮が必要です。



ホワイトボードに「今から話をしたい」と筆談で伝え、父に心積もりをしてもらいました。

点いていたテレビを消す了解も得て、会話に集中できる環境を整えて、

ゆっくりと話を始めました。



父は事前に、こうして今やることを視覚的に提示して明確化すると認識しやすく、

心積もりができると、会話にも集中でき、応答しやすくなるのです。



「お父ちゃんの気持ち」「お父ちゃんの希望」とホワイトボードに書いて示し、

筆談しながら、一つずつ確認していきました。



父の一つめの希望は「歩けるようになりたい」ということでした。



昨年の脳梗塞再発から1年、いろんなことがありましたが、

「歩けるようになりたい」という父の希望は今も変わらないことがわかりました。

その想いがあるから「リハビリも頑張っている」とのことでした。



現状の身体状態では、自助具を使ったとしても歩くことは難しい予後ですが、

父に「歩けるようになりたい」という気持ちがあることを知り、とても嬉しく思いました。



できなくなることが増え、不調が増えると、マイナス思考になることもありますが、

どれだけ落ち込んでも、どれだけ時間がかかっても、

今まで同様、父は「浮上する力」までは消えないのです。



訪問リハのPTさんたちともよく話していることですが、

父は生き方の基本として「諦めない」という意思が強いのです。



父の「生きる希望」とも言える強い意思に、

ことあるたびに、私たちの方が支えられてきました。



この1年、身体状況も生活スタイルもがらっと変わったにも関わらず、

「父らしい生き方」は何も変わっていないことがわかり、感動しました。



父の二つめの希望は「もう少し喋れるようになりたい」ということでした。



全くことばが出ないわけではありませんが、

脳梗塞の後遺症として「構音障害」があるために出にくくなった現状が辛く、

「ことば」で伝えたい想いが伝えられない悔しさがあるのだと思います。



生活上、介助してもらうことが増え、意思疎通がうまくいかないことは

ストレスになっているとのことでした。



そういうストレスがあるなら、嫌な想いをしていることもあるだろうと思いますが、

介助を受けていることに対してどんなふうに思っているかを問うと、

父の口から出たのは「満足」という一言でした。



はっきりとして力強いその一言には父の気持ちがこめられていて、

私は泣きそうになりました。



職員さんたちや私が父の意思や希望を確認するためにいろいろ工夫して

対応してくれていることはよくわかっているとのことでした。



父のストレスは、職員さんたちや私に対するストレスではなく、

身体の動きにくさや意思表示のしにくさなど、

自分自身へのもどかしさや辛さ、苦しさなのだとなのだということが

父の表情からもよく伝わってきました。



介助が増え、不調も増えている現状に対して心配ではないかということも問うと、

父の口から出たのは、自分自身のことにも母のことにも「安心」という一言でした。



「安心」という一言にも、父の気持ちがこめられていて、

職員さんたちや私たちの想いが父にはちゃんと伝わっているのだと思えて、

私もホッとしました。



「満足」も「安心」もたった一言のことばですが、

たくさん語らなくても、父の想いが充分伝わってくるメッセージでした。


Photo  想いの確認に使ったホワイトボード



娘の私に対しては本音が出せるので、ストレスが高まると怒ることもあります。

それでも、以前、訪問PTさんに聞いたことですが、父は私がいない時に、

「娘がよくしてくれているのはわかっているけど、怒ってしまう時がある。

感情が止められなくなって、いつも悪いなぁと思っている」と言っていたそうです。



私は父の想いや優しさはわかっているので、

心と裏腹に、イライラして怒りをぶつけてしまう父の辛さもよくわかります。

むしろ、苛立ちや怒りを心の中に押し込めずに、出してくれることが私には安心でした。



「怒られて嬉しい」というのは変な感じがするかも知れませんが、

怒れるようになることが父の「元気回復のバロメーター」でもあるので、

私の正直な気持ちです。



この1年間の身体状態の変化で、

職員さんたちに対して対応を嫌がったりすることも増えましたが、

そんな変化も、父が職員さんたちにも意思表示ができるようになったのだと

私は嬉しいこととして捉えています。

(対応しづらくさせていると思うので、職員さんたちには申し訳ない気持ちはありますが)



私に対しては素直に出せる苛立ちや怒りですが、

以前の父は「職員さんたちにはいろいろお世話になっているから、

不満や文句は言えない」と言っていたからです。



そんな父が、職員さんたちに対していろんな感情を出せるようになったのは、

職員さんたちを信頼し、安心できる存在だと思えるようになったからだと思います。



父の意思表示を「抵抗・拒否」と一面的に捉えてしまうと気づけないことです。



父の「もう少し喋れるようになりたい」という希望は、

辛さや苦しさの訴えだけでなく、嬉しい気持ちや感謝の気持ちも含め、

自分の気持ちや想いを、いわゆる「ことば」で伝えたいからなのだと思います。



60年近く娘として父と接してきて、

父は自分の気持ちをうまく表現できない不器用なところはありますが、

正直に生きてきた人です。



あらためて、父は今も昔と変わらず、優しく、意思が強く、

まわりの人たちに対する「感謝の気持ち」が本当に強いのだと思いました。



特に「ありがとう」は、母に対しても、私に対しても、誰に対しても

ずっとことばにして伝え続けてきた父なので、

頭を下げたり、片手を挙げたり、手を合わせたりするしぐさでも充分伝わりますが、

父は「ことばにして伝えたい」のだと思います。



どれだけ衰えても、父は父らしく生きていると感じ、とても嬉しく、感激しました。




2月3日、デイサービスで「豆まき」がありました。

父にも参加させてあげようかなと思い、父に伝えました。



日めくりの「2月3日」と「節分」「豆まき」と書いたホワイトボードを提示すると

父にしっかり伝わりました。



廊下には職員さんが扮する「赤鬼」と「青鬼」もいたので、

視覚的にも、より明確に伝わったようです。



デイサービスの部屋に行くと、みなさんが豆まきの準備をされていました。

その後、窓の外にいる「赤鬼」と「青鬼」に向かって、母たちが豆まきを始めました。



父も「マスに入った豆」をもらって、豆まきをするように伝えられましたが、

父には窓の外の鬼たちは見えず、

母たちの後ろ姿からは豆まきをしていることがわからず、

父は豆をまかずに食べ始めました^^;



実は、それは私の予想通りでした(*^_^*)



豆まきを終えた母が、父と場所を代わってくれました。

窓によじ登ってきた赤鬼の姿が見えると、父も1回だけ豆をまきました。



鬼が見えなくなると、父はまた食べ始めました。

食べ始めるとまわりの状況も見えなくなって、食べることに集中している様子でした。



豆が大好きだということもありますが、

美味しそうにポリポリと豆を食べている父を見て、

手元にある「マスに入った豆」は父にとって「豆まき用の豆」ではなく、

「食べる豆」なんだと思わず笑ってしまいました。



父の姿が微笑ましい様子に見えたのか、

まわりの人たちも温かい眼差しで見守ってくださっていました。




Photo_4  豆を食べている父


Photo  窓の下にいる赤鬼と青鬼


Photo_2  赤鬼と青鬼との記念写真

    母が手に持っているホワイトボードに注目!




こんな「豆まきの日のエピソード」からも、

父にとってストレスのない円滑なコミュニケーションをはかるためには

父の「聴こえと認識の実情を的確に把握しておくことの重要性」を再確認しました。



居室に比べると、視界に入るものの多さ、人の動き等々

デイサービスの部屋は圧倒的に情報過多の環境にあります。



しかも「視覚優位」の父にとっては、

そんな環境の中で、自分に向けられている声を聴くのはかなり難しいと思います。



反応がなく、聴こえていないのかと思って、

声を大きくしたり、何度も声をかけたりしても、届かないこともあると思います。



そんな時の父は「見ること」に意識が集中してしまっているので、

大声や繰り返しの声かけをわずらわしく感じて、怒るかも知れません。

私自身、過去にそういうことを経験してきています^^;



関わる側の伝達を的確に伝えるためには、

父の「聴く環境(認識できる環境)」を整えることが先決です。



父への呼びかけがちゃんと父に届いているのかを確認し、

関わる側に意識を向けさせた上で指示や伝達をしないと伝わりません。



こんな話を伝えた職員さんが、「三郎さんには『ご飯ですよ』と言うより、

配膳されたトレイを見せた方が伝わるってことですね」とおっしゃっていましたが、

まさしく「百聞は一見に如かず」のような感じです。



「聴く環境(認識できる環境)」を整え、父が認識したことを確認した上で、

実物の提示や筆談等で「視覚的な伝達」をするとより伝わりやすくなるのです。



言い換えると、関わる側がそうした工夫や配慮をして、

父が何をするのかが認識できると、父は動きやすくなるのです。





デイサービスの部屋の人が大勢いる環境の中で、

父が自分の意思を伝えることは簡単なことではありません。

特に、ことばを発することが難しい今の父にとってはなおさらです。



他の人たちが介助を受けている様子が視界に入っていれば、

人一倍気を使う性格の父は自分の意思の伝達は控えているだろうと思います。



伝える時も、聴き取る時も、関わる側がそんな父の性格や特性を把握し、

的確に対応していけたら、今よりもっと意思疎通がうまくいくようになるはずです。



そうすると、父も「ことばで伝えられなくても意思が伝わる実感」が持てるようになり、

今の父が抱えているストレスも減っていくのではないかなと思います。



「豆まきの日のエピソード」のようななにげない日常の中にも

人と関わる時に忘れてはいけない配慮や工夫のヒントがあります。



ブログに繰り返し書いていることですが、

父も母も私に大事なことを教え続けてくれています。

心から感謝しています。



これからも、日々の学びを活かして関わっていこうと思います。

いろいろ楽しみながら…(^^)



母は父と一緒に豆まきに参加できたことが嬉しかったようです。

赤鬼と青鬼と撮った写真は私にとっても良い記念になりました。



またひとつ年を重ね、嬉しい学びを重ねられた節分の日となりました。

  

2017年1月 6日 (金)

ゆったり、まったりの新年会

私たちが帰省で留守中、両親はH館の職員さんや入居者さんたちと年越し。

両親共に、特に変わりなく無事に新年を迎えることができてとても嬉しいです。



3日は両親の居室で、山ねこと4人でささやかな新年会をしました。

寒い時期ですし、両親共に外食も難しくなってきているので、

お正月っぽい演出と共に、簡単おせちを準備しての昼食会です。



父も母も、いつもと違うことに戸惑うことも多いので、

その日はデイの部屋ではなく、居室で昼食をとることを事前に伝え、

テーブルの移動やセッティングも経過を見せました。



テーブルにお正月っぽく赤いクロスやランチョンマットを敷き、

「迎春」と添えたちりめん細工の「酉」を置くと、父も母も状況が把握できたようでした。



中身はみんな出来合いのもので、種類も多くはないですが、

「重箱」はかなりインパクトがあったようで、2人とも「お正月やなぁ」と嬉しそうでした。



Img_9675 新年会の写真



年末に、2人が共通してリクエストしていたお餅だけは準備しませんでした。

喉につめると危ないからと納得してもらいました。



今のところ、咀嚼も嚥下も大きな問題はないのですが、

最近、むせることが増えているので、危険を避けました。



「お餅なし」でしたが、「おぜんざい」は好評で、

2人とも「美味しい、美味しい」と喜んでくれました。



意外に受けたのが「みかん」でした。

「珍しいわぁ」と言って食べていました。



職員さんに伺うと、普段は半分にカットして出されているようなので、

「丸のままのみかん」を珍しく感じたのでしょう。



やっぱり、お正月には「こたつ&みかん」は「定番」のようです(*^_^*)



本当にささやかなメニューでしたが、

ゆったり、まったりした昼食時間になりました。





帰省中に撮った義母や義弟たちの写真を見せると、

父は「お義母さんは元気やったか?」と聞きました。

いつもこうして義母のことも気にかけてくれるので嬉しいです。



新幹線の車中で撮った富士山の写真も見せました。

いろいろわからなくなっていることもありますが、

写真を見て、2人ともすぐに「富士山」と言ったので、

「富士山」の偉大さをあらためて感じました。



元気に迎えることができたお正月の記念にと写真を撮りました。



Photo 親子3人の記念写真



今年、父と私は「年男・年女」です。

私は3月に還暦です。

「酉」を父の頭に乗せると母は大笑いしていました。

Photo_3  「酉」を乗せて記念写真




今年もいろいろあるかも知れませんが、

こんなふうに一緒に笑い合える時間を少しでも多く持ちたいと思っています。



何やかんや言って、一番笑ってるのは私です(*^_^*)

2016年12月30日 (金)

父と母に感謝

この一年、いろいろありました。

苦しいこと、辛いこと、悲しいこと…。



一番辛い想いをしてきたのは父。

一番苦しい想いをしてきたのは母。



それでも、この一年を笑顔で終われそうなのは、父と母の底力なのだと思います。



どんなことがあっても、感謝の気持ちを忘れない。

自分を信じ、まわりの人たちを信じる。

まわりの人たちへの思いやりや気遣いを忘れない。

どんなことがあっても、誰も責めない、争わない。

どんなことがあっても、諦めない。

どんなに苦しくても、どんなに辛くても、自分の生き方をぶらさない。



父95歳、母90歳。

認知症になった今でも、生き方として、

父も母もずっと私に示し続けてくれています。



父と母は私にとって一番の「道標」です。



父も母もうまく意思表示できない時もあります。

そんな時には、誤解を生んでしまうような言動も出てしまいます。



そんな言動がまわりの人たちを困らせてしまっていることもあります。

でも、それは父と母の「SOS」なのです。



私は父と母の「SOS」をどれだけ早く、的確にキャッチできるかが問われます。



「SOS」をキャッチし、適切に対応していけば、

父も母も安心し、心穏やかに過ごすことができます。



私が子どもの頃から、父も母も、

人に助けを求めることは恥ずかしいことではないと伝え続けてくれました。

父も母も、私の「SOS」にいつも気づき、助けてくれました。



私がどんな小さな「SOS」でも敏感に感じ取れるのは

父と母が私をそんなふうに育ててくれたからだと思います。



父と母の娘であることを誇りに思います。



この一年、数え切れないくらいの「ピンチ」がありました。

それでも、どんな時も好転していきました。

時間がかかっても…。



父と母の生き方から学んだことを私自身がぶらさずにいられれば、

この先、どんなことがあってもきっと大丈夫だと信じています。




今日から山ねこの実家に帰省することを伝えると、父も母も言いました。

「山ねこによろしく伝えて」と。

「義母さんによろしく伝えて」と。



昨日の父と母はとても穏やかな笑顔でした。

私が心配しないで帰省できるように、そんな笑顔を見せてくれたのでしょう。



私がこうして穏やかに一年を終えられるのは両親のおかげです。

きっと良い年が迎えられると思います。


Img_9527  H館でのクリスマスコンサートの日に

  「三郎さんもみよさんも笑顔がいっぱい見られました」という連絡メールに添えられていた写真

2016年6月27日 (月)

コミュニケーションは双方向

1月の父の「左脳梗塞」は幸いにも、右マヒが軽症だったことと、

積極的に右手を使う父の気力と努力で順調に回復してきていましたが、

3月25日に「右脳梗塞」を再発しました。



その後、薬疹他、服薬の副作用の諸症状がいろいろ出てしまい、

体動時に上肢の使いにくさも出てしまいました。

それでも、父なりにどうすれば痛くなく、うまく使えるかを探っていました。



そんな様子をみて、諦めないで自分自身の病気に向き合っている父に、

職員さんたちも訪問リハビリやマッサージの担当者の方たちも私も励まされてきました。



それでも、辛いことは重なるもので、その後もあれこれ不調が出てしまい、

父も辛く、苦しい日々が続いています。



衰えていく体力や身体状態を受け入れていく苦悩の中にあっても

父の「自分らしく生きようとする力」に応えて、

娘として何ができるか問われ続けている毎日です。



脳梗塞の後遺症での構音障害で声が出にくかった時期もあり、

父からの発話は少なくなっています。



そんな状況でも、父は視線や表情、指差し、身振り・手振りなど

いろいろな方法で自分の意思や要求を表現してくれています。



それは、たとえ小さな動き(意思伝達のサイン)であっても、

私や職員さんたちや関係者がキャッチし、的確に対応することで、

「発話が少なくても意思が伝わる実感」を父自身が積み重ねてきたからだと思います。



父は難聴もありますが、元々、文字に書いたり、写真や実物を見せたりなど、

視覚的に情報を伝える方が認識しやすく、再確認もできるので、

私は何年も前から生活の中にそうした工夫をたくさん取り入れてきました。



そんな工夫の中のひとつが「伝達支援 絵カード」です。

居室や洗面所など必要な場所に置いてあります。


Photo  伝達支援 絵カード(居室用)



Photo_2  伝達支援 絵カード(洗面所用)



Photo_3  伝達支援 絵カード(浴室用)



この「絵カード」で使っているシンボルは「ドロップス(※)」と言って、

「ドロップレット・プロジェクトが開発、デザインしたシンボル集」の中から選んでいます。

※参照:ドロップレット・プロジェクト

http://droplet.ddo.jp/



「ドロップス」は介護の現場にはまだ浸透していないのか、

私が居室で使っていても、どなたも「ドロップス」はご存知ありませんでした。



訪問マッサージの担当者の方には、絵がとてもわかりやすくて、

他の方たちにも使えそうと言われました。

こうして「ドロップス」をご存じない分野の方たちに知っていただけると

使っている私も嬉しくなります。



余談になりますが、実は、このイラストの顔は男の子の顔として描かれていて、

使い始めた頃、父に使うには少し子どもっぽいかなと思っていました。



でも、「ドロップス」の存在を知らなかった友人のOTはこの絵を見て、「おじいさん」と言い、

「お父さんに似たイラストをよく見つけたね」と言いました。

そんな反応もなんだかとっても新鮮でした(^^)




「絵カード」は劣化を防ぐために「ラミネート加工」してあります。

以前は、選んだシンボルをA4サイズに分割印刷し、

A4サイズでラミネート加工後に分割して切り取り、角を丸く切っていました。



100円ショップで「カード&診察券サイズ」のラミネートフィルムを見つけてからは、

1枚ずつカードサイズでラミネート加工できるので、うんと楽になりました(*^^)v

ラミネート加工後に角を丸く切る作業もなくなりました(^^)


Photo_4  カード&診察券サイズのラミネートフィルム



また、この「絵カード」はホワイトボードから取り外しやすいように、

「マグネットメモクリップ」というのを使っています。

テープ式のマグネットより、少し浮くようにホワイトボードに取り付けられるので、

「絵カード」が取り外ししやすいのです。


Photo_5  マグネットメモクリップ



また、取り外した「絵カード」を戻す場所がわかるように

縮小した同じ絵をホワイトボードに貼ってあります。


Photo_6  取り外しの工夫





「ノート式のホワイトボード」は持ち運びもできて、立てて使うこともできます。


Photo_7  ノート式のホワイトボード




「リング式のクリアファイル」には伝達に必要な写真や予定を書いたものを入れて、

通院先などでも使えるようにしています。

父だけでなく、これらは母にも使っています。


Photo_8  伝達支援ノート



Photo_9  伝達支援ノートの使用例



Photo_10  伝達支援ノートの使用例



どれも、100円ショップのものですが、こういう使い勝手の良いものを見つけると

「ものづくり大好き人間」としては嬉しくなります(*^^)v



「楽チン」はものづくりには欠かせないキーワードですし、

作ったものを使う時にも「楽チン」であることは大事です(*^_^*)



訪問診療のドクターや通院先のドクターなども、

こうした伝達の工夫が父に有効なのをとても理解してくださっているので、

顔写真の撮影の依頼も快く受けてくださいます。



こうしたグッズは、元々、父と私のコミュニケーションのためのグッズでしたが、

父への有効な手立てとして、職員さんたちも積極的に使ってくださるようになりました。


Photo_11  予定掲示ボード保管場所



Photo_12  予定掲示ボード設置場所




こうして私が積み重ねてきた「絵カード」や「手書きメモ」など伝達の工夫が、

父にとっても「必要で、理解しやすい手立て」として生活の中で定着してきているからこそ、

職員さんたちや関係者の方たちも有効だと実感して使ってくださるのだと思います。



「ドロップス」のシンボルの中の笑顔のイラストを見るたび、

父との「コミュニケーション支援」として

「絵カード」や「手書きメモ」などを使い続けてきて良かったなぁと思います。



口頭伝達だけでは伝わり難いことや忘れてしまうようなことは

父が覚えておけるようにと、ある職員さんがこんな「貼り紙」をしてくださいました。


Photo_15  職員さんの手書きの貼り紙




今まで私がしてきた工夫を職員さんが真似てくださることがとても嬉しいです(*^_^*)



こうした表示をしていただけるのは、本人の実状をよく観察し、

本人がより理解しやすく、使いやすくなるために何ができるかということを

サポートする側が自分自身に問う感性があってこそだと思います。



職員さんたちと一緒にそういうことを考え合える環境にあることを嬉しく思います。



脳梗塞発症直後で、今よりことばがもっと出なかった頃に、

父は訪問介護に入ってくださった職員さんにお礼を言ったそうです。

訪問介護ノートにはそのことが書かれてありました。


Photo_14  「訪問介護ノート」の記録




どんな小さなことであっても、誰に対しても(私に対しても)

「ありがとう」とことばにすることは、父も母も昔から全く変わりません。

(父は「おおきに」と言います)



最近は「両手を合わせる」や「頭を下げる」ポーズで表わします。



そんな父や母の「ありがとう」のことばが私たちを勇気づけ、励ましてくれているのだと思います。



先日、父の入浴を介助してくださった職員さんが

「三郎さん、今日はありがとう」と言ってくださいました。



介助してくださる職員さんから父への「ありがとう」にも胸が熱くなりました。

こんなステキな職員さんたちがいることを本当に嬉しく思います。



「ありがとう」はみんなが幸せになれることばだということをあらためて感じています。



認知症があっても、自分のことを受け入れ、正しく理解してもらえることで、

父も母も安心できているのだなぁと痛感します。



「伝えようとする気持ち」と「受け止めて対応しようという気持ち」

「伝わる喜び」「伝えられる喜び」「理解できる喜び」…、

「コミュニケーションは双方向」だということを今さらながら実感している毎日です。



「双方向の良好なコミュニケーション」が「相互の安心感や信頼関係」に繋がり、

介助される人も介助する人も、安心し、楽になり、幸せになっていくのです。



父の脳梗塞発症以降、いろいろな対応に追われ、私も少し疲れが出てしまいましたが、

こうしてみなさんに支えられ、助けられ、励まされていることが癒しにもなっています。



「ありがとう」の想いとことば。

それさえあれば、人はどんな苦しい状況になっても好転していくのだと思います。



思うようにならない今の現実と闘っている父の心痛は計り知れませんが、

心のストレスは体調にも影響するので、

こうした配慮ある対応でストレスを少なくしていくことが私たちの務めだと思っています。



今日も1日の終わりに心からの「感謝の気持ち」をこめて、私も伝えたいと思います。

ありがとうございましたm(__)m